忍者ブログ
「ポッタリアン情報局」分室。 今後はこちらを中心に更新していきます。 原書購読奮闘記のログ、コメント、その他のコンテンツも順次こちらに移行する予定です。 各記事にコメントをつけられますので、ぜひ、どうぞ。 お待ちしております。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

DVDの発売も発表になったことだし、映画の感想を書いておく。 発売になるDVDは通常版、特別版(特典ディスク付)に加え、Blue-rayやHD-DVD版など種類があるのでお間違えなきよう。

原作との明らかなギャップ。 ちっとも痩せっぽちでヒョロヒョロではないハリー。 子役が育ってしまったので(別の役者に替えるのも良し悪し)それはしょうがないとして、フィッグばあさんの台詞で原作に忠実に「痩せっぽち」と言わせるのはどうだか…。 原作を端折りすぎてしまっているので、そこまでして原作の設定を活かさなくてもいいようなところまで忠実に作っているのは、やはり原作ファン向けか…。 非常に暑い夏で始まる原作、ペチュニアおばさんの格好(!)で、暑い設定だったことを思い出したが、映画としてはどうでもいいような…。 一方「トロールの足の傘たて」みたいに気付く人だけ気付くようなさりげない原作の小ネタは、好感が持てた。 そうそう、双子の花火のシーンで、手を叩いて喜ぶフリットウィック先生もさりげなくて良かった。

これは私のイメージと違う、というだけのことなのだが、ブラック家のお屋敷はもっと大きいかと思っていた。 廊下も狭い、食堂なんてかなり狭い…、由緒ある家柄のお屋敷でもロンドンにあればあんなもの? 反対に、魔法省。 あんなに広いなんて思わなかった。 いったい何人の人が働いているのだろう? ちょっと多過ぎないか? ついでに言うと、ダーズリー家のある郊外の住宅地も随分広い。 空き地ってあんなにだだっ広い? それともわざと誇張したイメージで描いている? 映画の冒頭は、自分が勝手に思い描いていたスケール感とのギャップにちょっとショック。

成長と共に原作とのギャップを広げてしまった継続子役キャストに比べて、新キャラ、ルーナは原作とイメージぴったり。 本当はもっと目がギョロっとしているはずで、可愛すぎるが、まぁそんなものだろう。 アンブリッジ先生は最初はどうかと思ったが、映画の中で動けば動くほど原作のイメージ通り。 それはキャストの力量か。 シャックボルトは、読んで思い描いていたイメージそのまま。 トンクスは出番が少なかったので、まぁまぁって感じ。

初代キャストがあまりにもダンブルドアのイメージそのままだったので、それとは敢えて違う役作りをしているであろうマイケル・ガンボン。 難しいところだ。 やはり原作のイメージとは違うなぁ、という印象。

チョー・チャンは、友人マリエッタの分も悪役を引き受けてしまって、おそらく今作限りで映画的には出番なし? もっと言えば、ハリーとのキス・シーン、本当に必要だったのだろうか? 限られた時間にまとめなければならないとしたら、恋愛がらみの話はばっさり切ってしまっても良かったように思う。 話題先行していただけに、なかなか切れない事情はあったかもしれないが。

ロンとハーマイオニーが監督生になった話やクィディッチはばっさりカット。 それは正しい選択ではあったと思うが、ハリーが意味もなくイライラしている原因がわかりにくい。 ハリーがイライラしてロンにそっけなくあたるのは、不快な夢のせいだけではないのだが、映画だけでその辺がわかるのか? 聖マンゴ病院もばっさりカット。 謎解きの要素もふっとんだ。 セストラルについても説明不足ではないのか? 原作を読んでいない人ってどれだけわかる?

一流のキャストを揃えているにもかかわらず、二流の映画になっちゃった?というのが、私の正直な印象だった。 音楽も耳に残っていない。 が、世の中の評判を聞いていると必ずしもそうでないらしい。 とりあえず、最後の映画まで観るし、グッズも買ってしまうだろう。 でも、原作マニアの一人が半信半疑で一作目の映画を観た時の衝撃的な感動はもう持てない。

PR

映画「〜秘密の部屋」の感想で、『とにかく息つく暇もない程の展開に長尺を感じさせないのは立派。』と書いた。 それはそのままこの映画「〜アズカバンの囚人」にもあてはまる。 今回は、最初からジェットコースターのような早い展開だ。 大胆に原作のエピソードを切り刻んでつなぎ合わせている。

ストーリーの流れが原作通りではない、という熱心なファンの不満は、製作する側はもはや受け入れることはできないだろう。 少しずつではあるが、1作目、2作目、3作目とだんだん長くなっているのだから。 私としても、ストーリーの流れが原作通りではないことについてどうこう言うつもりはない。 むしろ、短くまとめるためにどう継ぎ接ぎするのかに興味があり、うまくまとめていると思った。 が、全体的に、特に前半、まるでダイジェスト版を見ているような印象ではあった。 「〜秘密の部屋」の感想(言いたい放題)では、『どの場面も予告編や事前に流出したプロモ写真などで観たものばかり、という印象。』と書いたが、今回もそんな印象である。 事前に流出している情報を、積極的に見ないようにはしていたので、狼人間のシーンなど、意外性というか新鮮さをを感じる場面ももちろんあった。 タイム・トラベルの場面は、映像表現の面白さを満喫した。 (Back to the Future を思い出してしまった。)

テーマ

映画1,2作目は、映画としてわかりやすく勧善懲悪のヒーロー物語としてまとめたと言える。 が、ヒーロー物語、と言ってしまうには主人公ハリーのヒーロー性は弱い。 ラスボスとの戦いを自らの力のみで切り抜けたとは言い切れない。 それ故、その点において酷評を受けることになった。 では、原作もヒーロー物語だったのだろうか?

私は、原作を読んだとき、1〜3作目までは同じような系統の物語ととらえていた。 それもそのはず、エンターテイメントなヒーロー物語ではなく、どちらかと言えばミステリーだと感じていたからだ。 しかし、米資本のファミリー向け映画をミステリー仕立ての映画にはできないだろう。 見る方も、マジカルな世界をCGでどう見せてくれるか、ということを期待している。 懲悪のヒーロー物語として映画をまとめたのは当然のことだろう。

3作目「〜アズカバンの囚人」は明らかにヒーロー不在でラスボス戦の無い物語である。 シリーズを通して、唯一、ハリーの宿敵であるヴォルデモートが出てこない物語らしい。 では、ミステリー映画にしてしまうか? それではファミリー向け映画にはならない。

主人公ハリー自身の成長物語という位置づけになったのは必然の結果なのだろう。 ラスボス戦とはいえないが、今回、ハリーはディメンターの脅威をみごとにほぼ自力で切り抜けることに成功する。 ヒーロー性のないヒーローが初めてヒーローらしい活躍をするのだ。 とはいえ、本来アズカバンの囚人となるべきだったスキャバーズことワームテイルことピーター・ペティグリューは逃してしまう。 嫌疑をかけられアズカバンの衆人となっていたシリウス・ブラックが敵でないことはわかったが、わかっただけで、魔法界一般的には彼が追われる身であることは変わらない。 つまり(魔法界の)世間的には何も解決していない。 これではいくらヒーロー的活躍をしてくれてもヒーロー物語というには弱いだろう。

ストーリー

ハリー自身の成長をストーリーの根幹としたとき、果たしてそれが効果的に描かれていたか、というと疑問が残る。 ハリーの気持ちの揺れ、恐怖、怒りなどをもっともっと描き出すべきではなかったのだろうか。 ハリーのヒーロー的活躍といっても、結局は呪文を唱えるだけ。 しかし、その魔法を使うのが実は難しい、のがハリーの魔法界。 正しく呪文を唱えれば魔法OKというわけではなく、パトローナス・チャームの習得は困難だったはずだが、 映画ではあっさりしている。 あれでは、あまり努力とか苦労が伝わってこない。 しょせん、魔法の話、ファンタジー、と言われてしまうだけ。

「怪物的な怪物の本」の奇怪さを描くことに時間をかけるより、映画として、もっと重要なことがあったように思う。 さらに言えば、マージおばさんが膨らむシーン、果たして必要だったのだろうか? ナイト・バスの暴走シーン、果たして必要だったのだろうか?

ハリーは無意識のうちに魔法を使ってしまい、マージおばさんを膨らませてしまった。 が、その因果関係がはっきり描けていただろうか? ハリーの怒りでマージおばさんは膨らみ始める。 膨らみ始めたマージおばさんを見て、ハリーは「ざまぁみろ」と思っているのだろうか? 「しまった!」と思っているのだろうか? 「何とかとめなきゃ」と思っているのだろうか? きっと、複数の感情が複雑に入り乱れているはずである。 そして発作的に家出してしまうのだが、かなり唐突な感じがした。 なぜ、ハリーは家出しようと思ったのか、そして家出してしまったのか、 きっと原作を読んでいない人には理解しにくかったのではないだろうか。 そしてその複雑な気持ちこそ、今回の映画で描きたかったものではないのか?

横道にそれるが、騒動に巻き込まれるダーズリー家の人々は好演だった。 あのわずかな場面の中で、ダドリーの間抜けぶりがみごとに詰め込まれているのには感動。

次にナイト・バス。 ナイト・バスそのものは、コミカル&マジカル担当だが、それに乗るハリーの気持ちは重い。 原作では、ハリーが名乗るとき思わずネビルの名前が口に出る。 それが端的にハリーの重い気持ちを表していると思うのだが、映画では省略されてしまった。 ここでハリーが抱えている様々な不安、それこそ今回の映画で描きたいものではなかったのか?

ホグワーツの学校生活も光陰矢のごとしで進んでいく。 占い学のトレローニー先生は、原作では印象が強くストーリーに欠かせない人物というイメージが残っていたが、映画では果たしてそうだっただろうか? 原作ではまず最初の授業で「死の予言」をするのが強烈だ。 マクゴナガル先生にすぐ否定されるのだが、それでも読者の印象に残る。 ハリーの紅茶の葉占いでグリム(黒犬)が出ていたり、ハリーの目の前でトレローニー先生が意味不明の予言めいたことを言ったりする。 重要な伏線ではあるが、映画の観客に果たしてどれだけアピール度があっただろうか。 おもいきって省略してもいいのではないかと思われるくらいの駆け足だ。 肝心の預言の場面もエフェクトに頼った演出なのはいまいち。 演技力で見せて欲しかった。

もちろん、どういう風に映像化されるか期待していたファンが多いと思うので、 (もちろん私もその一人だ) もしこれらのシーンがカットされたら批難轟々の嵐ではなかったかと思う。 魔法の映像化としてはとても面白かったし、観客を映画に引き込む効果があることは認めよう。 が、その裏にあるハリーの感情があまり描けていなかったように思うのだ。 それとも子役にそこまで細かな感情の表現を演技としてい要求するのは酷なのか?

トレローニー先生については、 たとえ「〜アズカバンの囚人」で省略したとしても、シリーズ全体から見ると、 削ってしまうことは危険なのかもしれない。 原作者のローリングさんは、今後の(未発表の)ストーリーにつながる伏線がこの映画に含まれている、 と言ったらしい。

クライマックスに突入してからも、ハリーには葛藤があったはずなのだが、 スピード進行で物語は進んでいく。 せめてこのクライマックスはもっとじっくりと描いても…、いやむしろ、 このクライマックスをじっくり描くために前半をもっと端折っても良かったのではないか、 と感じた。 特にシリウスがハリーに名付け親として保護者になろう、と話す場面。 あまりに唐突すぎではないだろうか。 とってつけたような。

とはいえ、かなり大胆に端折られてはいるのだが。 それでも、製作側の原作ファンに対する遠慮が見えてしまう端折られ方、と言わざるを得ない。

映像

CGの安っぽさを感じてしまう場面がいくつかあった。 力が入っているシーンとそうでないシーンに差があったような…。

それから、ハグリッドを大きく見せるためのトリッキーな撮影方法。 あまりにもミエミエでぜんぜんトリッキーでない(笑)。 前2作が自然だっただけに、大きく見せようとミエミエな撮影をしているのが かえってきになってしまった。

さて、変身シーン。 これは力が入っていた。 ツルツルの狼人間はわざとそうしたようだが…。 ネズミの方はといえば、ネズミからペティグリューに戻ったとき、服を着ていた。 (「〜賢者の石」でマクゴナガル先生が猫から人間の姿の戻ったときももちろん服あり) ところが、ペティグリューからネズミのなって逃げる時、服を置いて去って行ったのは…どういうこと!?

ところでバックビークに乗ったハリーが、湖の上で腕を広げるシーン、←タイタニックごっこしているんじゃないんだから(笑) きっと同じことを思った人が何人もいるに違いない…。 でもこのバックビークのCGは良くできていると思う。

美術と音楽

(なんか教科名みたいですが) ホグワーツの雰囲気がだいぶ変わりました。 なんか違う…でもやっぱりホグワーツ。 ホグワーツは広いのでこんな場所もあったのだろう、ということでだいたいが受け入れられる。 渡り廊下など、前作までとは傾向の違うクラシックな雰囲気は音楽とマッチしていて良かった。 前回までが荘厳な雰囲気だとすれば、今回は素朴。

一方、かなりの違和感を感じる所もある。 「暴れ柳」の植わっている場所は明らかに違うし、ハグリッドの小屋の周囲の風景もまったく違う。 これに関しては前作までを見ている多くの人が感じるはず。 タイムトラベルの中心の場所となるので、この方が都合が良かったのかもしれないが、 もう少し違和感を感じさせない工夫が欲しかった。

グリフィンドールの談話室の入り口が、階段室からに変更されたのも、前作と違う、というだけでなく 原作の話とも違うという意味でかなり違和感。 どこの寮も入り口は、他の寮の生徒が知らないくらいわかりにくいところにあるはず。 それなのに、あんな目立つところにある、というのは…。 確かに、他の肖像画に隠れる「太った婦人」を描写するには、あそこは最適の場所なのかもしれないが。

レゴの「アズカバンの囚人」シリーズで「ホグワーツ城」がリニューアルされたのだが、 その新しいバージョンを見たとき、ホグワーツにこんな時計台なんてあったけ?と思った。 実際にレゴを組み立ててみたとき、きっとこれはレゴの時計(というか振り子)のギミックを商品化するための デザインだと思った。 ところが、ところが、 レゴは実に忠実に映画「〜アズカバンの囚人」の中のホグワーツを再現していたのに感動。

人物

やはり今回の新たなキーパーソンは、シリウス・ブラック。 が、もうちょっとルーピン先生を丁寧に扱っても良かったのではないか。 ハリーの過去、ハリーの両親の過去を解き明かしていく上で、ルーピン先生の役割は大きい。 …なのに、いまひとつ存在感に欠ける。 そう思ったのは私だけだろうか。

映画を観ても、ルーピン先生のイメージ、ちょっと違うんじゃない、という印象はかわらなかった。 私が持っていたイメージと違う、というだけなのだが。 私の持っていたイメージというのはもっと貧相な感じ。 頬がこけているくらいでないと…。 映画のルーピン先生は温厚そうな雰囲気が良く出ていて、 それがルーピンの人柄を良く表していたとは思うのだが…。

ところで、ゴイル。 いつもクラッブとセットでないといけないのに(笑)、今回の映画では、 クラッブがいてもゴイルの姿が見えないときもチラホラ。 代わりに別のキャストがドラコの取り巻きにいたが、やはりクラッブとゴイルでないと…ね。

そのドラコの取り巻きにわりとかわいい感じの濃い色の髪の女の子がいたのだが、 パンジー・パーキンソンということなのだろうか。それ、原作と違いすぎ。 吹き替えの声は小桜エツ子さんだったような…あれ?声に子役使っていない…?!

今回のドラコはかなり情けない役。 まぁ原作でもそうなんですが、純血のプリンスを気取っている、という感じではなくなってしまった。

丸顔だったネビルが、背も高くて細くなってしまって! シェーマスもトーマスもかなり雰囲気が変わってきましたね。 シェーマスの方がネビルより丸顔?

エンディング

エンディングになるまで、「ファイアボルト」がそれまで出てきていなかったことを忘れていた。 「ファイアボルト」がなくてもストーリーは成り立ってしまうのか、という事実に少々驚くとともに、 最後にこのように見せたやり方は非常に上手い、と思った。

エンディングのクレジット・ロールも、このような見せ方をすると面白い。 ただ、子供にはやっぱり退屈なのではないかと思う。 どうしても時間が長くなるから。 ラストの「いたずら完了」はよめてしまったし。 「忍びの地図」が欲しくなった。(笑)

おまけ:映画「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」は8月7日までで興行収入100億円の大台を突破し、日本映画興行界史上初めてシリーズ3作連続での100億円突破となったそうだ。

巷(というか、マスコミのプレビュー評)の噂では、エンタテイメント性が増したと、概ね好評ともいえる2作目「〜秘密の部屋」。 実際に観ての印象は、とにかく息つく暇もない程の展開に2時間40分という長尺を感じさせないのは立派。 しかし、ある意味、前作「ハリー・ポッターと賢者の石」と比べ、薄くなったような気がしなくもない。 とにかく、考える暇もないし、感傷に浸る暇もない。 次々と展開する場面に振り回される。冗長さなど微塵もなく、面白いと言えば、面白い。 それをもって、エンタテイメント性が増したというのならば、そういうことなのだろう。

前作「〜賢者の石」では、原作からカットされたエピソードについては、いろいろマイナス面での意見があった。 ある程度コンパクトにまとめるためには、どこかカットしなければならない。 となると、あれはあれで最善を尽くしたとは思う。 それでもいくらか不満はある。 どうせカットするなら、もっと思い切って変更を加えても良かったように思うのだが、編集の段階で当初予定しなかった場面のカットもあったのだろう。 仕方がない。 そんなマイナス意見を意識したのかしていないのか、「〜秘密の部屋」では、かなり欲張りにエピソードを詰め込んだ。 大幅にカットされたのは、ゴーストたちの『絶命日パーティー』。 それ以外にも小さな場面はいくつも省略されているが、そこはうまくつないでいる。 月日の流れはこの際、無視、と言わんばかりに、次から次へと展開するのだ。 (「〜賢者の石」でもよくよく考えてみると月日の流れは無視されていた) しかし、こう早くては原作を読んでいないとチンプンカンプンではないだろうか。 読んでいなくても「〜賢者の石」がしっかり頭に入っていれば、大丈夫だろうか。 (「〜賢者の石」を観ず/読まずに「〜秘密の部屋」を観るのはかなり無謀だ。 しかし映画だったらそういう客もいるだろう。) 仮に「〜賢者の石」を観ていたとしても、内容はすでにうろ覚え、映画の予備知識もなしだったら、とてもストーリーについていけないに違いない。 その辺りは、「〜賢者の石」が世界歴代2位の興行成績をあげている強みだろうか。 とはいえ、映画の序盤は比較的丁寧にのんびりと描写されている。 前作「〜賢者の石」では、原作からカットされたエピソードについては、いろいろマイナス面での意見があった。 ある程度コンパクトにまとめるためには、どこかカットしなければならない。 となると、あれはあれで最善を尽くしたとは思う。 それでもいくらか不満はある。 どうせカットするなら、もっと思い切って変更を加えても良かったように思うのだが、編集の段階で当初予定しなかった場面のカットもあったのだろう。 仕方がない。 そんなマイナス意見を意識したのかしていないのか、「〜秘密の部屋」では、かなり欲張りにエピソードを詰め込んだ。 大幅にカットされたのは、ゴーストたちの『絶命日パーティー』。 それ以外にも小さな場面はいくつも省略されているが、そこはうまくつないでいる。 月日の流れはこの際、無視、と言わんばかりに、次から次へと展開するのだ。 (「〜賢者の石」でもよくよく考えてみると月日の流れは無視されていた) しかし、こう早くては原作を読んでいないとチンプンカンプンではないだろうか。 読んでいなくても「〜賢者の石」がしっかり頭に入っていれば、大丈夫だろうか。 (「〜賢者の石」を観ず/読まずに「〜秘密の部屋」を観るのはかなり無謀だ。 しかし映画だったらそういう客もいるだろう。) 仮に「〜賢者の石」を観ていたとしても、内容はすでにうろ覚え、映画の予備知識もなしだったら、とてもストーリーについていけないに違いない。 その辺りは、「〜賢者の石」が世界歴代2位の興行成績をあげている強みだろうか。 とはいえ、映画の序盤は比較的丁寧にのんびりと描写されている。

導入部では、ハリーが、前作の最後でハグリッドから贈られたアルバムを見ている。 このアルバムで、観客の気持をスーっと、前作の最後に戻すところがなかなか イキな演出だ。すんなりと「秘密の部屋」の物語に入っていける。 ハーマイオニーが「レパロ」の呪文でハリーの壊れた眼鏡を直すのは、1作目「〜賢者の石」で初めて会ったときと同じ。 原作によると、学校外で呪文を使ってはいけなかったのではなかったか、なんていうヘリクツは横に置いておいて楽しみたい場面。 キングクロス駅の駅員さんが「〜賢者の石」の時と同じ駅員さん(俳優さん)だというのも、やはり、ニヤッとしてしまう。 そして、後半にいくにしたがい、どんどん展開が速くなっていく。 一度の鑑賞ではついていくのがせいいっぱいだろう。 2回目に観賞した時は、原作のどこの場面が飛ばされるのか、次にどこの場面に移るのかということが頭に入っていたため、最初の時より映像を楽しめたように思う。

「〜賢者の石」では、ホグワーツに着いた晩、ハリーが窓際に座り、我が身に起きた環境の急変を一人想うシーンがあった。 そして『みぞの鏡』を前に両親を想うシーン、雪の積もる城の中庭でのペットのヘドウィグとのシーン。 そんな感傷に浸るようなシーンは、「〜秘密の部屋」ではバッサリカットされてしまった。 予告編には、ハリーがヘドウィグの湖畔でのシーンがあったが、本編ではなかった。 おそらく、『秘密の部屋』を開けた犯人として疑われハリーが孤立してしまう辺りのことではないかと思われるのだが、そこは、アッサリと表現され(うっかりしたら気付かない) 過ぎて行く。 映画では、ひたすら「秘密の部屋」の謎につきすすんでいくハリーなのだ。 おそらく、嫌疑がかけられなくても、積極的に謎につきすすんでいったと思われる、そんな雰囲気だ。

ジェットコースター展開だから、観る方に謎解きを考えている暇はない。 原作では、あーだこーだ悩みながら、遠回りしながら、『秘密の部屋』の謎の核心に近付いていったが、映画では悩んでいる暇はない。どんどん進んで行く。 専ら、冒険性重視、という感じだ。 クライマックスの『秘密の部屋』でのバジリスクとの戦いのシーンでは、原作にはない見せ場を作っている。 どう考えても、サラザール・スリザリンの顔の石像に登る必然性はないのだが、そのおかげで、ハラハラドキドキがプラスされている。 予告編では絶対に落としたように見えたグリフィンドールの剣、間一髪で持ち直していた。

前回は充分時間がかけらなかったという、CG など特殊効果がプラスされたシーンは、今回は格段に良くなっていた。 クィディッチ競技場での、TVゲームっぽい印象がなくなったのは、喜ばしい。 もっとも、いきなり試合中の場面に入っていくので、競技場全景をとらえるようなカットは少なく、単純には前作とは比較出来ない。 しかし、あの狭い溝をくねくねともの凄いスピードで蛇行しながら飛ぶ場面を作り上げるのはさぞかし、大変だったろうと想像する。 余談になるが、あのように編集してしまうのだったら、審判役のフーチ先生は映る暇がない。

CG製作に時間がかけられるのに気をよくしたのか、クィディッチ以外でも、多用している。空から眺めた街並から、ググーッとフォーカスしてプリベット通りのダーズリー家に至るオープニングの場面。 それから、ホグワーツ城を外観のシーンがたくさんあった。 どちらも、明らかに CG だか特殊効果だかの産物だ。 どんなにがんばってみたところで安っぽさ/嘘っぽさが残っているように思えてしまう。 前作が持っていた重厚感が薄くなったように感じられた。 どうせCGと、こんなヒネタ目で観るのは大人だけかもしれないが。 せっかく、素敵な古い建物がたくさんあるのだから、もう少しロケで撮った建物の映像を使っても良かったように思う。

前作でもロンはお下がりのローブだからつんつるてん、という設定が生かされて短めになっていたが、 2作目では、つんつるてんどころか着古して黒というよりグレーに近い色になっている。 最初は、ロンだけ、なぜローブの色が微妙に違うのだろう、と思ったのだが、よく考えてみれば、あれは着古し感だった。 どうせやるなら1作目からやって欲しかった。

さて、子役達。 もちろん、前作「〜賢者の石」から比べると、少しは大人びてきているのだが、 もっとも最近見たプレミアの映像と比べると、映画の中では、 まだまだ子供でかわいい。数ヵ月の差なのにねぇ… 「〜賢者の石」では、やはり、子供らしいわざとらしい演技でなかったと言ったら嘘になる。 そのわざとらしさもまたかわいかったのだが、今回の「〜秘密の部屋」ではずっと自然な演技になってきた。 共演者、スタッフとも慣れたのだろう。 安心して見ていられるし、より物語に入り込める。

ハリーのヒーロー性がでてきた分、ロンとハーマイオニーはどう活躍させるのだろう、と期待半分、不安半分で観た。 映画のハーマイオニーは、原作以上に魔法を駆使して場を収め、活躍している。 一方、ロンは、ひたすら情けないのだが…、そんな情けない役をクルクル替わる豊かな表情で見せてくれる。 前作と比べると、明らかにノッポになって、だから余計に頼りなさが情けないのだが、それを魅力に変えてしまっているのは、天分だろう。 空飛ぶ車に乗ってホグワーツ特急に追い掛けられるシーン、クモの大群に追い掛けられあわてふためくシーン。 いずれもハリー役のダニエル君よりずっと切羽詰まった表情を見せてくれて、緊迫感がリアルに伝わってくる。

「〜秘密の部屋」では、ハリーは大活躍である。 『アラゴグ』との対面の場面では、冷静沈着すぎる嫌いがあるが、ロンとの対比だろう。 最後のクライマックスの場面『秘密の部屋』では、一人で、敵に立ち向かう。 フォークスの応援はあるものの、よくわからないうちに勝ってしまった「〜賢者の石」の時とは違う。 一方、ダンブルドアとハリーとの会話には、いまいち深みがないように思えた。 ハリーは、組分けの件で悩みと迷いでいっぱいのはずであるが、表面的には意外とあっさりしている。 ダンブルドアを演じるリチャード・ハリスは、撮影中から体調がすぐれなかったという噂だが、納得行くまで、撮影をやり直すことができなかったのかもしれない。 そう思って見てしまうと、ダンブルドアの声が弱々しく感じられる場面もある。 ホグワーツの長としての威厳さ、偉大さが今一つ弱くなっているように思える。 そして、茶目っ気もイマイチだった。

エンタテイメント性が増したとはいえ、オーソドックスな起承転結にのっとって場面が展開しているとは言いがたい。 クライマックスの『秘密の部屋』での対決の後の、一連のシーンは、もしかしたら冗長に感じられるものかもしれない。

今回、全編を通じて、彩りを与えているのがケネス・ブラナー演じるロックハート。 原作以上に魅力的で面白いキャラになっている。 ロックハートの役作りにはかなり時間をかけたようだが、それだけのことはある。 主役のハリー達を出し抜かない程度に存在感を振りまき、いろいろやらかしてくれる。 文章と映像の表現の違いからくることなのかもしれないが、映画では、どうしようもないのだけれど、憎めないキャラに仕上がった。 当初はヒュー・グラントの名前が挙がっていたが、スケジュールの都合か何かでダメになった。 それでも、ヒュー・グラント演じるロックハートを惜しむ声があちこちから聞こえてきたが、この映画を観てしまったら、ケネス・ブラナー以外のロックハートは考えられなくなってしまうのではないだろうか。 (もちろん、ヒュー・グラントだったらまた彼なりのロックハート像が出来上がったとは思うが、それはそれ、これはこれ) 「〜秘密の部屋」限りのキャラということで、思いっきり羽目を外させることができたこともあるのだろう。 おまけ映像では、その後(?)のロックハート先生まで見ることができる。 エンドクレジットロールの後におまけ映像がある、という話を聞いたとき、間違いなくその後のロックハート先生だろう、と思ったがその通りだった。 (それ以外考えられない) ほんとに良い味を出している。

予告編には、ハリーとロンが眠らせたクラッブとゴイルを引きずる場面があるが、本編ではなかった。 その他、勝手に脳内補完(!)しながら観ていたが、どの場面も予告編や事前に流出したプロモ写真などで観たものばかり、という印象。 予告編だけで何種類もあるし、ネット上には、公式だか非公式だかわからないが、一部の映像が公開前から流出していた。 映画の公開が近付くにつれて、あまり積極的に見て回らないようにしていたつもりだが、すでに予習を済ませた上で映画を観ているような気分だった。 ハリーとロンの乗る車がホグワーツ特急に追いかけられるのは、原作にはない映画オリジナルだが、予告編の中にもあった映像だ。 予告編にあったので、展開がすぐに読めてしまったが、もし予備知識なしに見たら意外性が増してもっと面白かったのではないかと思う。 (この空飛ぶ車のシーン、どうしても「Back To The Future 2」を連想してしまうのだが、私だけだろうか。) 逆にいうと、予告編は本当においしいシーンを詰め込んでいると言える。 本も読んでいるので今更意外性を期待するのは間違っているのかもしれないが、事前流出はほどほどに…。 (自分で見ないようにすればいいのだが、そんな無茶な…)

ところで、フリットウィック先生ですが、エンドクレジットで大きく名前が出ていたわりには、最後の宴会のシーンで同席していたくらいで、今回セリフもなかったような…。

映画の前に

今更、説明するまでもないと思うが、一言で言うのならば「魔法使いの男の子の話」。 既に原作は大ベストセラー。 口コミだけでこれだけヒットするわけはないので、 ヒットするよう仕掛けた人がいるのは間違いないが、非常に面白い話であることは確か。 私は映画公開の前に読んだ。

「はてしない物語」ではないけれど、近頃の読み物には、ファンタジーが少なくなっている、と感じる。 これを語りだすと長くなるのでやめておくが、この「ハリー・ポッター」には何も考えずに空想の世界に入り込めるファンタジーがあった。 念のため断っておくが、「はてしない物語」も「ハリー・ポッター」も、同じ『ファンタジー』に分類されるのだろうが、まったく別の種類の物語である。

ダイアゴン横丁、ホグワーツ行きの特急列車、ホグワーツ城…。 クラシカルな雰囲気の流れるヨーロッパの街を思わせる。 さらにそこは現実離れした魔法の世界。これぞファンタジー。 そして、登場人物の描き方。 主人公のハリーは可哀想な子供である。 可哀想な子供にはそれをいじめているヤツが必ずいる。 今時の児童書で、こんなはっきりいじめを書いてしまっていいのかと思うくらい徹底的にいじめられている。しかもソイツは醜く太っている。 今時の児童書で、そんな設定が許されるのかと思うくらい、ヤな奴は徹底的に悪くひどく書かれる。 良い人、悪い人の書き方がこれだけあからさまなのは、ちょっと昔に書かれた話やそれこそ昔話では当たり前だが、最近作られた話では珍しいのではないだろうか。 もちろん、悪い人が最後まで本当の悪人かどうかわからないというドンデン返しもあるのだが…。 そして、説教くさいことや教訓めいたことは何ひとつ書かれていない。 スカーっと楽しめる。 魔法の言葉やカタカナのオンパレードに、いろいろ伏線があるので、多少、とっつきにくく、話が長いことが難点か。 話が長いことは苦にならない人も多いと思うが。 一方、物語になんらメッセージ性が無いことを理由に、 この話を批判する人がいるようだ。「読むテレビゲーム」だと。 それならそれでいいではないかと思う。 娯楽としてのテレビゲームがあるのならば、娯楽としての読書があってもいいではないか。

映画

いい加減、映画の話に行こう。 監督クリス・コロンバスの前作(「ミセス・ダウト」「ホーム・アローン」)は好きな作品、ということで、わりと期待していたのだが、可もなく、不可もなく、といったところだろうか。 原作のイメージや雰囲気を壊さない、といった面では評価できるが、逆に、盛り上がりに今一つ欠ける展開になってしまったように思う。 英国の辛口評では、「原作の持つ、どこか重い雰囲気が失われている」「クリスマスのお子様向け映画」などあるそうだ。 日本では、本(訳書)にしても映画にしてもやたらと大人に向けてアピールしているように思えるが、しょせん「お子様向け」というのは当たらずと言えども遠からずだろう。 しかし、大人が童心に帰ってスカーッと楽しめるお子様向けエンターテイメントって、本当に良質なものでないとならないし、大人向けより作るのが難しい(技術的にでなく、内容的に)のではないだろうか。 『子供だまし』と『お子様向け』は違う。

映像と音響

別の監督が起用された場合、物語の舞台をロンドンからアメリカに移す、という案もあったようで、それを考えると、百倍ましと言えるだろう…。 これは、私の好みかもしれないが、原作にただようクラシカルなヨーロッパの雰囲気、イギリス的な雰囲気というのは、何ともいえない魅力である。 映画では、ぜひ、イギリスの町並み、クラシカルなヨーロッパ的な魔法の世界を映像で表現して欲しかった。 監督のこだわりの結果、撮影はすべてロンドンで行われたそうで、その点については大いに評価したい。

ホグワーツ城は圧巻だった。特に、大広間。申し分ない。 (と、思ったら、これはオックスフォード大学でのロケだとか。納得。) 階段室の上下の空間的な広がりというか高さというのもなかなか。 ディズニーランドのホーンテッドマンションっぽくなってしまうのはしょうがないだろう…(苦笑)。 私もそんなイメージを少なからず持っていた。 …に比べ、冒頭のマグル(人間)の町であるプリペット通りは、セットっぽさが残っていて残念。 ゴミどころかチリ一つ落ちていないような感じだ。 魔法世界の映像表現の方に力を入れたかったのはわかるが、冒頭の部分は観客の心をつかまなくてはいけないところ。そこでいかにも嘘っぽい映像を見せられては幻滅してしまう。 いろいろな意味でもっと丁寧に撮って欲しかった。 ホグワーツ城の城内は良かったのだが、外の映像、特にクィディッチ競技場は、あまりにも CG っぽさが残っていてがっかり。 TVゲーム的に見せようとわざとそうしているのではないかと思うくらい。 透明マントの雰囲気は良く出ていたと思う。 消してしまう処理というのは、今の技術をもってすれば、そう難しいことではないのだろうが、透明マントの中にすっぽり入った中からの雰囲気も良く出ていた。 森の中のシーンのユニコーンとかケンタウルスは、あれでは原作を読んでいないと わかりにくいのではないだろうか。 明度を押えた色調は雰囲気が出ていたが、絵的な表現が良かったとしても、 あの辺りはストーリーをはしょりすぎているように思う。

次作は既にコロンバス監督の下で撮影中らしいが、 3作目あるいは4作目以降、スピルバーグが手を出すかも、という噂も聞こえてきている。 特撮処理にはそちらの方が期待できる。 原作に忠実に映画化する以上、映画で何をアピールするかといえば、映像表現に力を入れるくらいしか残されていないのでは? ゼメキス(「Back To The Future シリーズ」「フォレスト・ガンプ」の監督)でも、なかなか良い絵を撮るのではないだろうか。

私が良く撮れている、と思ったシーンは、後で知ったことだがほとんどがロケシーン。 CGを含めた特撮処理はまだ向上の余地があると思う。 監督が替われば、特撮映像が良くなる、というものでもないだろうが…。

最初に見た映画館では、サラウンド効果がわざとらしく耳についたが、次に別の映画館で見たときは気を抜いて見ていたせいかそうでもなかった。 これは映画館のせいかもしれない。

人物

次に人物の描き方。 生身の役者、しかも子役も演じるわけだから、原作でひどく書かれている人物もそうひどく描かれないだろう、というのは予想通り。 これは仕方ないというか当然というか…。 主人公のハリーにしても、原作では、少なくとも外見は、もう少しヒョロヒョロしたさえない男の子のように描かれていたように思うが、そこは映画の主役、とってもこざっぱりした可愛い男の子になってしまった。 これも仕方ないというか当然というか…。 可愛い子役、魅力的な子役を、という点は、コロンバス監督の手腕かもしれない。 これはこれで一つの成功だと思う。

個人的にイメージに一番ギャップがあったのが、スネイプ先生。 もっとせせこましい感じでやせこけているイメージを描いていた。 スネイプ先生に限らず、どの役者さんもそれなりに風格がある人ばかり。 重々しいセリフでは、むしろカッコイイ。 これも当然というか…。 マクゴナガル先生については、実は、もっと若々しいイメージを持っていた。 でもそれは私の勝手な思い込みだったかもしれない。 それが悪いというわけではないが、 人物描写に関しては、 演じる役者にひっぱられてしまった面がなきにしもあらずだと思う。 それもまた、別の見方をすれば映画としての魅力だ。

ストーリー

あれだけの長編を2時間強の映画に詰め込むには少々無理があったように思う。 とにかく、ストーリーがポンポン進む。 もっと時間を使って描けば、このシーンはもっと面白くなるはず、といった場面でも情け容赦なく話は展開してしまう。 個人的に楽しみにしていたのが、ハリーとダーズリー一家が手紙に追われて逃げるシーンだ。 読んでいてとても面白いシーンだったので、どんな映像表現で見せてくれるのかと期待していたが、あっさりカットされていた。 ダーズリーの家からいきなり海の孤島では、映画で初めて見る人にはわかりにくいのではないだろうか。 時間の制約でカットするならば、多少原作を曲げてでも別の演出にした方が良かったように思う。 例えば、ハグリッドがいきなりダーズリーの家に踏み込んで来てもいいのではないだろうか。

ストーリー展開の速さだけが問題ではない。 各登場人物の描き方、その関係も浅くなる。 ハーマイオニーは鼻持ちならない秀才ぶった女の子で、その子とだんだんと仲良しになっていく過程というのがなかなか面白いのだが、 その辺りはさらっと流してしまっている。 キーパーソンのクィレル先生についても、描き方が足りないように思う。 もっとも、映画だと、観る側が謎解きを考える暇はないのかもしれない。 この作品だけで姿を消すクィレル先生より、後々につながる鍵を持っていそうなスネイプ先生の描き方の方が丁寧になるのはしょうがないのかもしれない…。 が、映画「賢者の石」を独立した一作品として見たとき、やはり完成度は劣る。 最初から2作目以降のことを考えて作っている上に、原作を大切にするあまり、起伏の少ない展開になってしまった。

「賢者の石」「ヴォルデモート」にまつわる謎解きだけが物語の要素ではない。 それだけを考えて映画化するのだったらもっと簡単だっただろう。 …が、ハリーの生い立ちからホグワーツに入学するまで、そして1年生としてのホグワーツの1年間というのも物語の大切な要素である。 ホグワーツには組(寮)対抗の点取り競争や、クィディッチというスポーツの大会があるのだ。 さらに、伏線だらけときている。 何が、2作目以降の伏線になっているかわからない。 (日本語訳は3巻まで、英語原書も4巻までしか出版されていないので、 最後の7巻まで睨んだ作り方は、いずれにせよ、できない。) 組分け → 寮対抗点取り争い なんていうのは、物語の本筋と並行して繰り広げられるサイドストーリーとしてなかなか面白いのだが、映画ではその辺りが非常にわかりにくかったように思う。 ハリーがスリザリンに組分けされることを嫌うのも露骨だ。 あれではまるで、スリザリンが悪い組(寮)みたいに思えるのではないだろうか。 各組(寮)の性格は単純に、良い、悪いとレッテルをはれるほど単純ではない。 また、最後、逆転してハリーの属するグリフィンドールが勝つのも、あの映像表現ではあんまりではないだろうか。 とはいえ、あれは、原作に忠実に映像にしているだけである。 やはり、映画では、寮対抗の点取り争いについての描き込みが足りない分、最後の印象が本を読んだときとは異なってくるのだろう。 『原作に忠実に』が足枷になって、いまひとつ盛り上がりに欠けるものとなってしまったことは否めない。 逆に『忠実だった』ので、原作ファンの批判は受けずにすむだろう。

日本語訳

忠実、といえば、字幕が日本語の訳書の言葉に忠実だったことも特筆すべきだろう。 字幕監修に、訳者の松岡佑子さんがクレジットされているから当然といえば当然。 字幕の限られた文字数の限界というのはどうしても感じたが、字幕翻訳はベテランの戸田奈津子さん。

「3rd floor」はイギリス語では「3階」でなく「4階」のはず、という突っ込みがあるようだが、それで映画のストーリーに支障があるわけでもなし、許容範囲ではないだろうか。

それよりも、ハリーのお母さんのリリーはペチュニアおばさんの「妹」ではなく「姉」 であるのが正しいそうなので、修正して改版した翻訳本を出して欲しいものである。

吹替え版を見てわかったことは、私が、映画の英語をほとんど聞き取れていないということ。 もともと字幕は、1/3ほどしか訳せないと言われているが、その字幕を読んで、映像を見て…では、映画の内容を半分くらいしか理解できなくても不思議はない。 はしょりすぎ、と思ったストーリーも、吹替え版から察するに、字幕版を見たときの印象よりは はしょられていないことに気が付いた。 (ちょっとショック) セリフのすみずみまで無駄や遊びがいっさい無いということなのだが、これだけ詰め込んでいる映画はなかなかないかもしれない。 それだけに、何度観ても新しい発見があったりする。 (看板まで読み上げてしまうナレーションは悪評だが、小学低学年以下の子供にも見てもらおうと思うとしょうがないかもしれない。) 吹替えている声優さんはうまい人ばかり。 でも、役ヅクリは浅いように思った。 私は、字幕版も既に見ているし、TV の特番での出演者へのインタビューで元の声を聞いているので、違和感を感じる声もあった。 ハリーやロンの声は、ちょっと可愛すぎるというか幼すぎるように思った。 声変りの時期なので難しいとは思うが、次作以降はどうなるのだろう?

ダンブルドア役を演じていたのは、「サザエさん」の波平役が有名な永井一郎さん。 七色の声のタイプの方ではないので、波平にしか聞こえない、 という声もあるようだが、非常に上手い役者さんだと思う。 ウマイのだが…、果してどれだけダンブルドアという役を理解して演じていたのか首をかしげたくなるものがある。 ダンブルドア役のリチャード・ハリスは、「71歳の私が200歳の役を演じるのは難しい」とインタビューで語っていた。 永井一郎さんの演じるダンブルドアは、残念ながら200歳には聞こえないのだ。 ホグワーツの管理人フィルチを演じていたのは、「まるこちゃん」のおじいちゃん役(2代目)で有名な青野武さん。 こちらも七色の声のタイプの方ではないので、まるちゃんのおじいさんにしか聞こえない、という声もあるようだ。 が、やはりベテランの役者さん。 フィルチの雰囲気が出ていたと思う。 …が、セリフのある場面はわずか。 まるちゃんのおじいさんにしか聞こえない、という意見ももっともかもしれない。 でも永井一郎さんにしても青野武さんにしても、ぴったりのキャスティングだと私は思うのだが。

スネイプ先生がさらに渋い声になっていたのにはびっくり。 ますます最初の私のイメージとかけ離れた感じだ。 しかし、映画で描かれているイメージ、演じているアラン・リックマンの雰囲気からあのような吹替えになるのは必然かもしれない。 クィレル先生のおどおどした感じを「どもり」でなく表現していたが、それはそれで良かったと思う。

吹替え版しか観ない人であれば、私が感じたような違和感や抵抗感もなく 楽しく面白く観られた(聞けた)のだろう。

音楽

ジョン・ウィリアムスの名前を聞いただけで、音楽については安心してしまう。 ワンパターン、どれも同じ、などの批判あるいは非難めいた意見が時々聞こえてくるし、たしかにうなづける部分もあるのだが、だからといって、映画音楽として遜色あるものだとは思わない。 むしろ、効果的な雰囲気を出すのに一役かっている。 音楽がでしゃばったり、音楽だけ浮いているような感じもしない。 良い映画音楽を書く人だと思う。 「スター・ウォーズ」は有名。 「ホーム・アローン」は音楽がクローズアップされて語られることはあまりなかったと思うが、実に効果的な雰囲気を添えて映画を盛り上げていた。 この「ハリー・ポッター」についても、同じメロディが繰り返し、繰り返し流れ、いつの間にか、擦り込まれ、とけこんでいる。

最後に

本を読むのが面倒な人は、映画館に足を運ぶのもいいかもしれない。 文字アレルギーがない人は、本を読んで、自由に想像をふくらます方が、より、楽しめるのではないだろうか。 その点、日本語の訳書は、表紙のイラストに人物が描かれていないのが好感持てる。 米書だったと思うが、ハリーが描かれた表紙絵を見たときは、自分のイメージとのギャップにがっかりした。 …が、グッズがこれだけ出回っている今、そういう楽しみ方にはもしかしたら手遅れかもしれない。 映画化の話を聞いたとき、手放しで喜べなかったのは私だ。 映画で見せられる絵と自分のイメージが違ったら、それはショックだし、二次的著作物である以上、必ずそこに第三者の解釈というものがその作品に加わってしまうからだ。

しかしまぁ、この異常な人気。誰が仕掛けたのやら…。 でも素直に波にのって楽しみたいと思う。 気が早いのは百も承知だが、「秘密の部屋」の前売券も入手済である(笑)。


観てきました。可もなく不可もなく…ってところですかねぇ〜。
となると、どうしてあんなに人が集まるのかよくわからん…。
犬夜叉映画と比べるのが無理な話か?

最新CM
[11/27 age]
[11/20 にゃん]
[11/01 sos]
[02/29 Hermione]
[10/21 あゆみ]
プロフィール
ハンドル:
yuki chan
本サイト:
注目!
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新TB
バーコード
ブログ内検索
アクセス解析
忍者ブログ [PR]