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さてさて、退屈なダーズリー家を出発するために、ハリーはお迎えを待ちます。
正装…つまりきちんとしているところ見せたい、という見えっぱり故ですが…して待つバーノンおじさんには笑えます。
ハリー側から読んでいると笑ってしまう場面ですが、ダーズリーさん達というのは特別おかしな人達ではないのですよね。
表向きばかりとりつくろって、自分の子供にはベタベタに甘い…、そんな大人、程度の差はあれ、どこにでもいそうです。
視点を変えて見てみると、ダーズリー家というのは誇張されて描かれているとはいえ、とても現実的な一面を持っています。
最大の感心ごとは、ウィーズリーさん達がどのようにしてやってくるかということ。
マグル式で来てくれればいいのですが、例のフォードアングリアは無くなってしまったので、どうなることやら、とハリーは気をもみます。
ウィーズリー登場からは、コチコチのマグルであるダーズリーと、純潔魔法族のウィーズリーの対比の面白さです。
ハリーは、何事もなく平穏に旅立てるわけはないのです。
ダーズリー家での騒動は、手紙から始まります。いつかと同じように。
手紙といっても、ホグワーツからでなく、ウィーズリー夫人からです。
魔法使いの一家から手紙が届いた、なんていったら、それだけでダーズリー家ではパニックです。
しかも、表面ほとんど切手に覆いつくされていたなんて!笑えます。
笑ってしまいました。
ペチュニアおばさんはともかく、バーノンおじさんにとっては、魔法使いの姉なんか持った女性と結婚したための不幸と言えるのかもしれませんが、これが夫婦喧嘩に発展しない所が不思議と言えば不思議。
手紙は要は招待状なのですが、親レベルで話を通すことができるのならば、そうした方が良かろう、という形式的なものです。
マグル式で送って来たのは、相手に合わせる、という配慮。
しかし、ウィーズリー一家は生粋の魔法使い一家です。
やはり、相手の立場にたって文章を書いていない(言葉を選べない)ところがこれまたおかしいです。
形式的な手紙とは別に、フクロウ便で、ロンからも手紙が送られてきます。
許してくれても、許してくれなくても、とにかく迎えに行くからね、にはこれまた大笑いです。
しかし、ハリーに意地悪してやりたいバーノンおじさん。
招待を受けて、ハリーを厄介払いするより、ダメ!と言う方を選ぶなんて…!
でもそこはハリーがうまく切り抜けます。
主人公ハリーのいる場所に話が戻ってきて、例のごとく例のパターンの展開の始まりです。
ダーズリー家でのハリーの扱いが格段に良くなってきて(あくまでも以前と比較しての問題ですが)いるのが、不思議です。
ハリーがなかなかズルガシコクなってきたとも言えるのですが、今回はちゃんと魔法関連の私物を部屋に持ち込んで、勉強までしているようです。
魔法使いの友人、知人たちとも文通しています。
思えば、ちゃんとした部屋をあてがわれたのも、「魔法」がきっかけでした。
ひょっとして1章でのできごとはハリーの夢だったりして…。
それにしても、目新しい手法ではありませんが、1章から2章への場面展開は見事です。
読んだ後、こんなに重たい気持になったのは、「ハリー・ポッター」シリーズ初めて。 その理由はいくつか考えられますが、まず、物語がまったく完結していないということ。 3作目「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」も、一応物語は収束しているものの、問題を残しているという意味では完結していませんでした。 ところが、4作目「〜炎のゴブレット」では収束したかに見えて、むしろ風呂敷が広げられた形で物語が終っています。 シリウスは何のために、ルーピンの所へ行くのか。 ロンのお父さんのウィーズリー氏が魔法省の問題にどう関わっていくのか。 屋敷しもべ妖精の奴隷(!)問題は何ら進展していないが、ハーマイオニーはどうするつもりなのか。 ハーマイオニーの中ではどうなっているのか。 そして、何より、ヴォルデモートは、どう活動を開始するのか。
ここで振り替えって見ると、 1作目「ハリー・ポッターと賢者の石」は全ての物語のほんの序章に過ぎませんでした。 1作で一応完結していて、かつ、そのまま終ってしまっても通用する結末は、スター・ウォーズの最初の作品とある意味、似ています。 2作目、3作目は、その先にくる作品としての位置づけ。 完結しているという意味では、2作目「ハリー・ポッターと秘密の部屋」は一応、事件の解決をみて終結しています。 3作目「〜アズカバンの囚人」になると、謎解きは明かされたものの、後の物語に決着と解決を先伸ばしていて、事件が解決したとは言い難いです。 そして謎解きの説明が長いのが、難点と言えば難点かもしれません。
4作目「〜炎のゴブレット」は、2、3巻のすべてが伏線といってもいいくらい複雑に物語が組み立てられているように思います。 『炎のゴブレット』というアイテムについては、結局それだけだったか…という感じで少々残念ですが…。 手を替え、品を替え、過去の経緯を物語に織り込んでいますが、やはり説明部分が長いのが、難点と言えば難点かもしれません。 ヴォルデモートの復活と忠誠の儀式がやたら長く、冗長と言えなくも無い部分ですが、それだけに恐怖が演出されています。
広がった風呂敷をまとめるべく、これから、5、6、7巻と物語が進んでいくことになるのでしょう。 とにかく、このままでは、ヴォルデモートが心配で心配でしょうがないので、早く次が読みたいものです。 …となると、あとは1本の糸を辿るように物語が進むのか、と想像していますが、お楽しみですね。
重たい気持ちになった他の理由として、児童向けとは言えないくらい、残忍な場面が描かれていることが挙げられます。 それも詳細に描写されているわけではなく、むしろあっさりとあっけなく綴られています。あっけないだけに、後からズシリと心に染みてきます。 あいかわらずハリーはヒーローではないのですが、運命に翻弄される主人公だからこそ等身大に感じられるのではないかと思います。 運命に翻弄されつつも、一方では、14歳らしい悩みやとまどいを感じています。 「自分達と同じじゃない」と思う部分と、「魔法界ならではのドキドキワクワク」が縦糸と横糸のように自然に織り合わされている、それが物語の魅力なんだと思います。
追記 雑感読後も後をひきずるのがこの4巻。 3巻目までも、間接的に「死」は語られていました。 「〜炎のゴブレット」では初めて直接的に「死」の場面が出てくるから、重たく感じられる…そう言ってしまえばそうなのかもしれません。 「死」というよりもむしろ「殺人」です。 でも、それだけではないような気がしてずっとひっかかっていました。
冒頭のフランクの死は強烈です。 なぜそれだけのことで殺してしまうのか、読者にハラハラさえる間も与えず終止符を打つだけにヴォルデモートは残忍です。 そして、終盤で描かれるセドリックの死。 セドリックの横にはハリーがいました。 つまりハリーを殺すことだって、ヴォルデモートにとっては簡単なことだったのです。 それまでも、九死に一生を得てきたようなハリーでしたが、読者はどんなにハラハラさせられても、ハリーは主人公だから絶対死なない、という気持があったはず。 ところが、このセドリックの死では「もしもその杖の先がハリーに向いていたら」と思わずにいられません。 また、ヴォルデモートの手先は学期始めからずっと約1年近く、4年生のハリーを殺そうと思えばいつでも殺すことができたのです。 ハリーの命は敵の手の内にあった…これは、ハリーが死ぬという展開と同じくらいの衝撃です。 これが、重たさの原因ではないかと…。
現実の世界でも、死は常に隣合わせにあると言えるものですが、そのことを再認識させられます。
- 「ハリー・ポッター裏話 (作者と話そうシリーズ (Vol.1 J・K・ローリング))」 J.K.ローリング, リンゼイ・フレーザー著 松岡佑子訳 [静山社]
- 原書は「An Interview with J.K.Rowling (Telling Tales)」
- 「ハリー・ポッター誕生―J.K.ローリングの半生 (新潮文庫)」 コニ−・アン・カ−ク 著 小梨直 訳 [新潮社]
- 原書「J.K. Rowling: A Biography (Greenwood Biographies)」
- 「J.K.ローリングその魔法と真実 ハリー・ポッター誕生の光と影」 ショーン・スミス 著 鈴木 彩織 訳 [メディアファクトリー]
- 原書はJ.K.ROWLING : A Biography (Sean Smith 著)
- 「ハリー・ポッターともうひとりの魔法使い 作家J.K.ローリングの素顔」 マーク・シャピロ 著 鈴木 彩織 訳 [メディアファクトリー]
- 原書はJ. K. Rowling : The Wizard Behind Harry Potter (Marc Shapiro 著)